人生は折り返して元の姿に戻る(MGさん/50代女性)
熊本地震
母が83歳の春、熊本に大きな地震がありました。熊本地震です。揺れも大きく、時間もとても長く感じました。
このとき母は、自分の部屋にいましたので、急いで母の部屋に行きました。「何か落ちてきてないか、こわがっていないだろうか・・」そう思いながら部屋に入ると、母はいつもの場所に普通に座っていました。
「大丈夫だった?!大きな地震だったね!」と言った私に対し、「何が?地震があった?」と言っていました。
揺れを感じなかったのか、その時は感じたけど忘れてしまったのか、それはわかりません。
以前であれば怖がりの母は大騒ぎをしていたはずです。何ともない母を見てとりあえず安心しました。
こんなことがあると、母が認知症で良かったとさえ思ってしまいます。
余震が続く中、何とか眠ったのですが、午前4時頃、私は、吐き気で目が覚めました。その後、数分おきに嘔吐を繰り返したのです。
母がぐっすり眠っているのを確認し、夫に付き添ってもらって救急外来へ行きました。
母が心配だったので、夫は、とりあえず帰宅したのですが、そのあと医師より、「状態が良くないので入院した方が良い」と言われたのです。
家のこと、仕事のこと、何より母のことが心配で「入院はできません」と医師に伝えたのですが、「こんな状態で帰ったとしても何ができますか!自分の体が大事でしょう!」と叱られてしまいました。
知らず知らずのうちにストレスが溜まっていたようです。 しぶしぶ入院を承諾し病室へ行くことになりました。
地震で病院のエレベータが使えない為、タンカーに寝ている私を男性の看護師さん4名で3階の病室へ運んでくれました。
体が斜めになり、度々の余震で、吐き気が止まらず、もうろうとしていた私は、運ばれながら、「母が認知症で・・私がいなければどうなるか心配で・・」と何度も言っていたようです。
看護師さんは、私の様子を見て、「寝ているより座った方が楽だと思う」と言って、タンカーから車椅子にかえ車椅子ごと私を運んでくださいました。
病室のベッドに移った時、看護師さんが「お母さん心配ですね」と仰っていました。 重かったと思います。いろんな配慮に対し、とても有難く感じました。
入院後、本震がきたようですが、吐き気に苦しんでいた私は、ほとんどその記憶がありません。それから何日も余震が続きましたが、そのほとんどの期間を私は病院で過ごすことになります。
介護施設の協力(スケジュール調整)
できますか!自分の体が大事でしょう!」と叱られてしまいました。
ケアマネジャーに連絡し、入院したことを伝えました。
ありがたいことに、ショートステイも含めデイサービスに多めに行けるように調整してくれました。これほど、感謝したことはありません。
また、ケアマネジャーは何度もお見舞いに来てくださり、デイサービスでの母の様子を伝えてくれました。いつの間にか、ケアマネジャーを家族のように思っていた私です。
デイサービスのスタッフの方も、本当に良くしてくださいました。デイサービスに行った日は、送迎の順番を変更し、帰宅時間を可能な限り遅くしてくださいました。
デイサービスからお見舞いをかねて電話もいただき、「着替えなどの準備がわからないことなどありましたら、お手伝いしますので遠慮なく連絡ください」とまでおっしゃっていただきました。
「ご利用中は、いつも笑顔ですごされ周りを明るくしてくださっています」と聞き、安心した半面、娘が入院していることもわからないのか・・と少しさみしく感じた記憶があります。
もし介護施設との出会いがなかったら、今回の私の入院はもっと早くなり、状態も今回より重かっただろうと思います。
介護施設の協力(検便)
母の主治医より、検便がありますので、次回通院日に2回分持ってきてくださいと指示がありました。
母の検便・・自宅ではとても難しく、悩んでいました。努力はしてみましたが、やはりきびしくケアマネジャーに相談しました。
「デイサービスで対応してみます」とお返事をいただいたのが地震の前日でした。入院してしまったので、お任せするしかなく、結果を待っていたのですが、「肛門刺激にて多量に排便がありましたので、採便できました」と連絡をいただいたのです。
結局、2回ともデイサービスで採便していただきました。そこまでしていただけることを、本当に感謝しました。
また、定期的に排便の管理もしていただいて、出来るだけデイサービスにいる間に排便するよう心掛けてくださいました。
自宅で排便した時は、汚れた手でいろんな物を触るので、悪臭も衛生的にもとてもよくない状態でしたので、自宅での排便が少なくなったことも、とても助かっていました。
家族の協力
そして、家族の協力にも感謝です。私が入院することになった時、母の介護は、ほとんど私がしていましたので、夫と息子には、とても無理だろうと思い込んでいました。
しかし、いざとなると、何とかしてくれるものです。
夫と息子に、母についての情報を共有し、母が自宅にいる時の食事やインスリン、飲み薬、介護施設へ行く時の準備など、すべて手伝ってくれました。母の着替えの準備がいちばん大変だったかもしれません。
食事は、時にはお弁当を買ってきて、すませたこともあったようですが、夫と息子が交代で作ってくれたようです。
私は、母のためにひじきの煮物など、作り置きできるものをいくつか冷凍保存していました。まさか自分が入院するとは思っていなかったのですが、それが思いもかけないところで役にたちました。
男性二人でよく頑張ってくれたと思います。介護施設と家族がいなかったら、母はどうなっていただろうと考えると、まずは自分のからだを大事にしなければいけないと改めて感じました。
何とか退院した時もまだ余震は続いていました。地震で亡くなった方もいらっしゃる中、家族全員でテーブルを囲み、食事ができることに幸せを感じたことをおもいだします。
母は、私が入院していたことはもちろん、私が母のそばにいなかったことも、全くわかっていなかったようです。
地震の被害
我が家の地震の被害は少ない方でしたが、食器棚のお茶碗は、けっこう割れてしまいました。しばらく水が出なかったので、夫と息子は、食事の支度も大変だったと思います。
お風呂もかなり少ないお湯ですませたようです。
もし、デイサービスのお風呂にも入れないようでしたら、母のお風呂がいちばん問題だったと思います。
私が入院している間は、体を拭いてあげることもできません。しかし、母がお世話になっているデイサービスは、温泉ですので、何も問題なく入浴できたようです。
地震の被害が大きかった叔母(母の妹)夫婦の家を、母と一緒に訪ねました。叔母の家は、二階が完全に傾いていました。高齢の夫婦二人で、何日も車中泊をしていたそうです。ちょうど、私が入院していた期間とおなじくらいです。
今度、大きな地震がくれば、とても危ない状態とのことでした。そんな叔母の家を見て、母は、「なんで家が傾いているの?!何があったの?!」と叔母に言いました。
地震のことなど、まったく覚えていない母を見て、いろんな感情が込み上げてきた叔母は涙ぐんでいました。
母への想い
今回の地震と入院で、いろんな人に支えられていることをとても感じました。健康な時には決してわからないことだと思います。
体調が悪くなった時、自分では本当に何もできなくなります。
その後は、何事もなかったように生活していますが、皆さんに支えられたことへの感謝を忘れてはいけないとつくづく感じています。
だからこそ、自分も何かできることがあったら、支えられる存在にならなければと思います。まずは、いちばん身近な母のために。
そう思っていても、おそらく母の記憶にはほとんど残らないでしょう。もし、そうだったとしても、「私が母にしてあげられるすべてのことを・・・」 この時から、ずっとこの気持ちを継続してきました。