Pocket

記憶を全て失ってしまうのか

記憶を全て失ってしまうのか

認知症の人は、記憶をすべて失ってしまうのでしょうか。

認知症というと連想される症状のひとつが、「激しい物忘れ」でしょう。症状が進行すると家族の顔や名前も忘れてしまうケースがあります。しかし、全ての記憶が失われるわけではないという報告もあるようです。

まず記憶とは何かを復習してみると、「物事を覚えること」「それを脳に保存しておくこと」「あとから思い出すこと」と言えるでしょう。記憶は、「言葉にできる記憶(意識している記憶=顕在記憶)」と「言葉にできない記憶(意識していない記憶=潜在記憶)」に分類する考え方があります。

このうち認知症では、「言葉にできる記憶(顕在記憶)」が失われやすいと言います。しかし、「言葉にできない記憶(潜在記憶)」は残っているし、さらに新しいことを覚えることもできるようです。つまり、(認知症の段階にもよるでしょうが)記憶をすべて失ってしまうのではないのです。

失われる「エピソード記憶」や「意味記憶」

失われやすい方の記憶「言葉にできる記憶(意識している記憶=顕在記憶)」とは、具体的にはどんな記憶でしょうか。

例えば海に行ったことがある人が、あとから海の写真を見たときに「ああ、1年前に海に行ったなあ」と思い出します。自分が体験したことを覚えておいて、必要なときに思い出します。これを「エピソード記憶」といいます。

似た例で、「太平洋は世界で一番大きい海です」という文を見たときに、自分が海に行ったことを思い出します。このとき、「太平洋は世界で一番大きい海」というのは自分の体験ではありませんが、その「意味」として海を思い出したのです。これを「意味記憶」と呼びます。

「言葉にできる記憶(意識している記憶=顕在記憶)」には大きく分けてこの2つの記憶「エピソード記憶」と「意味記憶」があり、それらは認知症では失われやすいといわれています。身近な例で言うと、「ごはんを食べたかどうか(エピソード記憶)」や「この人は息子だ(意味記憶)」などです。
認知症の中核症状(記憶障害)もご覧下さい。

失われにくい「手続き記憶」や「プライミング」

実は「言葉にできる記憶(意識している記憶=顕在記憶)」は脳の中の膨大な記憶の氷山の一角で、それ以外に「言葉にできない記憶(意識していない記憶=潜在記憶)」があります。普段意識することのない記憶です。「言葉にできない記憶(意識していない記憶=潜在記憶)」は失われにくいと言われています。

例えば、自転車に乗ることです。一度自転車に乗れるようになった人は、長い間乗らなかったとしてもまた乗ることができます。そのとき、バランスのとり方、足の運び方、力の入れ方などをいちいち意識して思い出しているわけではありません。また、「時速5kmで走っているときには、足の回転数を1分間に何回にすれば倒れずに進める」などと考えはしないでしょう。つまり、自転車の乗り方は「体が覚えている」のです。これを「手続き記憶」と言います。「手続き記憶」はかなり重度の認知症の人でも失われづらいことが知られています。

あるピアニストが認知症になって家族の顔もわからなくなったにもかかわらず、ショパンを見事に弾き切った、などの報告もあります。

もうひとつ失われづらい記憶に「プライミング」があります。これは、「事前に受けた刺激で後の行動が影響を受ける」ことです。少しわかりづらいですが、例えば「医師」というイメージを与えられたうえで「女の人の職業で多いものは?」と言う質問をすると「看護師さん」と答えたとします。このとき、「医師」というイメージに影響を受けて「看護師」を思い出したのです。

この事前のきっかけとしては「見たこと」「匂い」「自分の記憶・体験」など、様々なものがありえるようです。例えば「消毒液」の匂いをかいで、「おじいちゃんの番ですよ」というと「注射をする」という連想を抱くのもそうかもしれません。

記憶の性質を介護に使う

さて、失われにくい「手続き記憶」や「プライミング」を意識して、認知症介護に役立てる手がかりがありそうです。

例えば、何度「トイレで用をたして」と伝えても、トイレでないところで排泄する認知症の人がいたとします。何度言葉で伝えても覚えてくれず、家族はショックを受けるとともに途方にくれています。

そこで、トイレのドアに「便器の絵や写真」を貼って、感覚的にそこをトイレだと認識してもらう方法はどうでしょうか。「トイレ」という「言葉」を張るのではなく、「絵や写真」を貼るのです。これを見て、「ここがトイレだ」と明確に認識しなかったとしても、何となく便器と関連した「排泄」という行為をとりやすくなる可能性があります。

「排泄」という行動が始まれば、あとは行為が続きやすくなるでしょう。「下着を脱いで」「便器にすわり」「用を足す」という一連の行動は、何度も繰り返してきた「手続き記憶」だからです。

昔から慣れ親しんだものを利用する

認知症になると、現在に近い記憶より昔の記憶の方が鮮明になる傾向があるといいます。このため、本人が昔から慣れ親しんだものや、実際に住んでいたところの絵や写真が、記憶を呼び覚ますきっかけになることがあるようです。

この原理は老人ホームなどの施設でも使われていて、各部屋のドアのところには、名前を記した札ではなく、ガラスケースやプラスチックのケースがあり、そこに自分が好きな絵や写真や小物を入れておけるようになっている場合があります。
本人はそれを見て、感覚的に「ここが自分の部屋なんだ」と感じ取りやすくなるでしょう。

こんな報告もあります。ある認知症の人が、自力で歯を磨くことができなかったのですが、本人が使っていた歯磨き粉と歯ブラシを用意したところ、何度かの練習の後に自分で歯磨きができるようになったそうです。以前使っていた歯ブラシの形、感触、歯磨き粉の匂いなどが記憶の中にあり、それが「プライミング」のきっかけになったのでしょう。

難しい言葉を使わなくても、私たちも日常的に体験しているはずです。ある匂いをかいだ瞬間に、子供の頃のある記憶が鮮明によみがえって胸がいっぱいになる、そんな経験は誰にでもあるでしょう。

こうして「手続き記憶」や「プライミング」をうまく使うことは、本人の記憶の引き出し方が広がったり、また家族や介護者が楽になることにつながるようです。やって損なことはないと思うので、是非実践してみて下さい。